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Debian は、当時 Purdue 大学の学部在校生であった Ian Murdock
さんによって 1993 年 8 月に生まれました。Debian は、 フリーソフトウェア財団
(Richard Stallman
さんによって創られた団体で、一般公衆利用許諾契約書
(GPL) と関係があります) の GNU Project によって 1 年間 -- 1994
年 11 月 から 1995 年 11 月まで -- 援助を受けました。
Debian 0.01 から Debian 0.90 までは 1993 年 8 月から 12 月までの間に リリースされました。Ian Murdock さんは次のように書いています:
「Debian 0.91 は 1994 年 1 月にリリースされました。原始的なパッケージ システムを備えており、ユーザはパッケージを操ることができましたが、それ 以外のことはほとんど何もできませんでした (依存関係や、それに類する事は まったく存在していませんでした)。その頃には、Debian の作業をしている人が 数十名いましたが、まだ私自身の手でリリースの取りまとめ作業の大半を行なって いました。0.91 は、このようにして行なわれた最後のリリースです。
1994
年の大部分は、他の人たちがより効果的に貢献できるよう
Debian プロジェクトを組織するのに、そして dpkg
(これについては 主に Ian Jackson
さんが責任を負っていました) について作業するのに
費やされました。私が覚えているかぎり、1994
年には公式なリリースは
ありませんでしたが、手続きを正しくするための作業中に数回の内部リリースが
ありました。
Debian 0.93 Release 5 が 1995 年 3 月に生まれました。これは
Debian の 最初の「現代的な」リリースでした:
その頃にはさらに多くの開発者がいて
(正確に何人なのか覚えていませんが)、それぞれが自分のパッケージを開発し、
基本システムをインストールした後でこれらすべてのパッケージをインストール
したり保守したりするのに dpkg
が使われていました。
Debian 0.93 Release 6 は 1995 年 11 月に生まれました。これは
a.out 形式での 最後のリリースでした。0.93R6 では約 60
人の開発者がパッケージを開発して
いました。私の記憶が正確ならば、dselect
は 0.93R6
で初めて登場しました」
Ian Murdock さんは、 Debian 0.93R6 は「いつでも私の大好きな Debian リリース だった」とも書いていますが、個人的な偏見がある可能性も認めています。なぜなら、 Murdock さんは Debian 1.0 の試作中である 1996 年 3 月に、プロジェクトで活動 するのをやめているからです。Debian 1.0 は、実際には Debian 1.1 としてリリース されました。これは、CD-ROM 製造者がリリースされていないバージョンを誤って Debian 1.0 と称してしまった後の混乱を避けるためです。この出来事は、ベンダが この種の誤りを避けるのをプロジェクトが助ける方法としての「公式の」CD-ROM イメージという概念につながりました。
1995 年 8 月 (Debian 0.93 Release 5 と Debian 0.93 Release 6 との間) に、 Hartmut Koptein さんが Motorola m68k 系列への Debian の最初の移植を開始 しました。Koptein さんは「とても多くのパッケージは i386 中心主義 (リトル エンディアン、-m486、-O6、libc4 専用) で、自分のマシン (Atari Medusa 68040, 32 MHz) 上に出発点となるパッケージをそろえるのに苦労しました。3 か月後 (1995 年 11 月) には、入手可能な 250 個のパッケージのうち 200 個をアップロード しましたが、すべて libc5 用でした!」と報告しています。後に Koptein さんは、 Vincent Renardias さんや Martin Schulze さんと一緒に PowerPC 系列への 移植をはじめました。
この頃には、Debian
プロジェクトは他のアーキテクチャへの数種の 移植版
と、新しい (Linux
では ない) カーネル、すなわち GNU Hurd
マイクロカーネルへの移植版を含むまでに
成長していました。
初期のプロジェクトメンバーである Bill Mitchell さんは、Linux カーネルに ついて次のように回想しています。
「...Debian が生まれたときは 0.99r8 と 0.99r15 の間でした。長い間、 私は 20 Mhz の 386 ベースなマシン上でカーネルを 30 分以内に構築することが できました。そして同じ時間で、Debian のインストールを 10MB 未満のディスク スペースに行なうことができました。
... Ian Murdock さん、私、Ian Jackson さん、苗字を思い出せない別の Ian さん、 Dan Quinlan さん、そして名前を思い出せない他の人たちを最初のグループとして 覚えています。Matt Welsh さんは最初のグループの一部か、かなり早い段階で 参加しました (その後、プロジェクトから離れました)。誰かがメーリングリストを 用意し、私たちはうまくやっていました。
思い出せるかぎりでは、私たちは計画を立ててから始めたわけではなく、 計画を高度に組織化された形にまとめてから始めたわけでもありませんでした。 これははっきり思い出せますが、私たちは開始直後から、パッケージのまったく 無作為なコレクションを作るためのソースを集めはじめました。時間がたつにつれ、 ディストリビューションの中核をまとめるために必要なものを集めるのに専念する ようになりました: カーネル、シェル、update、getty、システムを初期化するのに 必要なその他のさまざまなプログラムやサポートファイル、そして中核となる ユーティリティ一式です」
プロジェクトのごく初期の段階では、メンバーはソースのみのパッケージを
配布することを考えました。各パッケージは上流のソースコードと
Debian 化された
パッチファイルから構成され、ユーザはソースを解凍し、パッチを当て、自分で
バイナリをコンパイルするわけです。しかし、すぐにバイナリ配布のための何らかの
仕組みが必要だと気がつきました。Ian Murdock
さんによって書かれ、 dpkg
と呼ばれた最初のパッケージ化ツールは、Debian
特有のバイナリ
形式でパッケージを作成しました。さらに後で展開して、パッケージ内のファイルを
インストールするのにも使えました。
Ian Jackson
さんがすぐにパッケージ化ツールの開発を引きつぎ、ツール自体の
名前を dpkg-deb
に変更し、dpkg-deb
の使用を 容易にし今日の Debian システムの 依存 や
競合を提供する ための dpkg
と名付けられたフロントエンドプログラムを書きました。
これらのツールによって作られたパッケージには、そのパッケージを作るのに使われた
ツールのバージョンを示すヘッダがあり、tar
によって作られた アーカイブ
(制御情報によってヘッダとは分けられていました)
へのオフセットが ファイル内にありました。
およそこの頃、プロジェクトメンバー間で論争がおきました
-- dpkg-deb
によって作られた Debian
特有のフォーマットは、ar
プログラムに
よって作られる形式に取って代わられるべきではないかと思った人がいました。
何度かファイル形式が変更され、それに対応してパッケージ化ツールが変更された
後で、ar
形式が採用されました。この変更の鍵となる価値は、あらゆる
Unix
似なシステム上で、信頼できない実行形式を走らせる必要なしに
Debian
パッケージを展開できるようになったということです。言いかえれば、'ar'
や 'tar' といったすべての Unix
システムに備わっている標準的なツールさえあれば、 Debian
バイナリパッケージを展開し中身を調べることができるということです。
Ian Murdock さんが Debian を離れるとき、Murdock さんは Bruce Perens さんを 次のプロジェクトリーダーに指名しました。Bruce さんが Debian に最初に興味を 抱いたのは、ハム無線オペレータの役に立つ Linux ソフトウェアをすべて含む 「Linux for Hams」という名の Linuxディストリビューション CD を作ろうとして いたときでした。自分のプロジェクトに対応させるには、Debian の中核システムには もっと作業が必要なことが判り、Bruce さんは自分のハム無線ディストリビューションを 延期して、(Ian Murdock さんとともに) 最初の Debian インストールスクリプト一式 (今日の Debian レスキューフロッピーになりました) を組織化することを含む、 基本的な Linux システムと関連するインストールツールの作業にのめりこむように なりました。
Ian Murdock さんは次のように述べています:
「Bruce さんは私の後継者として自然な選択でした。なぜなら彼は 1 年近くもの間 基本システムを開発していて、私が Debian に提供できる時間が急速に減っていくに つれて弛んだ部分を拾いあげていったからです」
Bruce さんは Debian フリーソフトウェアガイドラインと Debian 社会契約を作る ための労力をまとめること、またオープンハードウェアプロジェクトの創設を含む プロジェクトの重要な側面を始めました。Bruce さんがプロジェクトリーダーを 務める間に、Debian は市場シェアと、まじめで、優れた技術を持つ Linux ユーザの ためのプラットフォームとしての名声を獲得しました。
Bruce Perens さんはまた、Software
in the Public Interest, Inc.
を設立する努力の先頭にも立ちました。もともとは Debian
プロジェクトに
寄付を受けいれることができる法人格を提供することが狙いでしたが、
その目的は Debian
プロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトを
支援することも含むように、まもなく拡大されました。
この頃、次の Debian バージョンがリリースされました:
1.1 Buzz 1996 年 6 月リリース (474 個のパッケージ、2.0
カーネル、ELF 形式のみ、dpkg
)
1.2 Rex 1996 年 12 月リリース (848 個のパッケージ、120 人の開発者)
1.3 Bo 1997 年 7 月リリース (974 個のパッケージ、200 人の開発者)
1.3 には中間の「ポイント」リリースが何回か行なわれました。その最後は 1.3.1R6 です。
Bruce Perens さんは 2.0 リリースを準備する過程の大部分でプロジェクトを 率いた後、 1998 年 1 月初めに Debian プロジェクトリーダーの職を Ian Jackson さんに引きつぎました。
Ian Jackson さんは、1998 年初めに Debian プロジェクトのリーダーに就任 ました。その直後、Software in the Public Interest の取締役会に副社長として 迎えられました。財務担当 (Tim Sailer)、社長 (Bruce Perens) そして書記官 (Ian Murdock) が辞任した後、Jackson さんは社長になり、3 人の新メンバーが 選ばれました: Martin Schulze (副社長)、Dale Scheetz (書記官)、そして Nils Lohner (財務担当) です。
Debian 2.0 (Hamm) は、1998 年 7 月に Intel i386 および Motorola 68000 系列アーキテクチャ向けにリリースされました。このリリースは、システム C ライブラリの新バージョン (glibc2、歴史的な理由から libc6 とも呼ばれています) への移行を果たしました。リリース時点では、400 人以上の Debian 開発者によって 保守される 1500 個以上のパッケージがありました。
1999 年 1 月、Wichert Akkerman さんが Ian Jackson さんから Debian
プロジェクトリーダ職を引き継ぎました。 Debian 2.1
は最終段階でいくつかの問題が起きたため、1 週間遅れで
1999 年 3 月 9 日に リリースされました
。
Debian 2.1 (Slink) は 2
種類の新しいアーキテクチャに公式対応していました:
Alpha
と
Sparc
です。
Debian 2.1 に収録された X-Windows
パッケージは以前のリリースから 大きく再編され、また
2.1 は次世代の Debian パッケージ管理インターフェイスであ
apt
も収録していました。さらに、この Debian
リリースは「公式 Debian CD セット」に 2 枚の CD-ROM
が必要となる初めての Debian リリースでした; 約 2250
個のパッケージが収録されていました。
1999 年 4 月 21 日、Corel が Debian および KDE
グループによって作られた デスクトップ環境を元にした
Linux ディストリビューションをリリースする
計画だと発表した時、Corel
Corporation
と K
デスクトップ プロジェクト
が Debian
と事実上の同盟を結成しました。その春と夏の間、
また別の Debian ベースなディストリビューションである
Storm Linux が出現し、 Debian プロジェクトは CD-ROM
や公式プロジェクトウェブサイトといった Debian
公認の物品で使うための公式バージョンと、Debian
に言及するか由来する物品で
使うための非公式ロゴからなる新しいロゴ
を採択しました。
新しい、独特な Debian
移植版が始まったのもこの頃です。すなわち Hurd
への移植版です。 これは Linux
以外のカーネルを使う初めての移植版で、かわりに GNU Mach
マイクロカーネルの一種である GNU Hurd
を
使っています。
Debian 2.2 (Potato) は、2000 年 8 月 15 日に Intel i386、 Motorola 68000 シリーズ、alpha, SUN Sparc, PowerPC そして ARM アーキテクチャ向けにリリースされました。これは PowerPC と ARM への 移植版を含む初めてのリリースです。このリリース時点では、450 人以上の Debian 開発者によって保守される 3900 個以上のバイナリパッケージと、 2600 個以上のソースパッケージがありました。
Debian 2.2
について興味深い事実は、フリーソフトウェアが、あらゆる困難にも
かかわらず、現代的なオペレーティングシステムを生み出せることを示したことです。
このことは、関心を抱いたグループによる Counting
potatoes
という記事の中で詳細に研究されました。同記事より引用します:
「[...] 我々は David A. Wheeler 作の sloccount システムを使い、 Debian 2.2 (別名 potato) の有意なコードのソース行数 (SLOC) を測定した。 Debian 2.2 には、(約 8 ヶ月後にリリースされた Red Hat 7.1 のほぼ倍に あたる) 55,000,000 行以上の有意な SLOC があり、(世界中に散らばっている ボランティアの開発者からなる巨大なグループの作業を元にした) Debian の 開発モデルは、少なくとも他の開発手法に匹敵はすることが示されている [...] また、もし Debian が伝統的なプロプライエタリな手法を使って開発されて いたなら、COCOMO モデルで見積った Debian 2.2 の開発コストは 19 億米ドル 近くにもなるであろうことも示されている。さらに我々は、Debian 2.2 で 使われたプログラミング言語 (C が約 70%、C++ が約 10%、Lisp とシェルが おおよそ 5%、その他大勢があとに続く) と、大規模なパッケージ (Mozilla、 Linux カーネル、PM3、XFree86、その他) に関する分析も提供する」
woody
がリリースの準備に取りかかれるようになる前に、ftp-master
上の
アーカイブシステムに変更が加えられなければなりませんでした。woody
の リリースを準備するために初めて使われる新しい
"テスト版" ディストリビューション
といった、特別な目的のディストリビューションを可能にするパッケージ
プールが、2000 年 12 月半ばにftp-master
上で稼働を始めました
。パッケージプールは既存パッケージ
の異なるバージョンを集めたものにすぎず、複数のディストリビューション
(現在のところ experimental、不安定版、テスト版、安定版)
はそこから パッケージを取得することができ、各々の
Packages ファイルに収録されます。
同時にテスト版という新ディストリビューションが導入されました。主に、 不安定版の中で安定していると思われるパッケージが (数週間後に) テスト版に 移されます。テスト版導入の目的は、フリーズ期間の短縮と、プロジェクトが いつでも新リリースの準備を行なえるようにすることです。
この期間に、Debian のモディファイ版を出荷していた企業のいくつかが、 消えてなくなりました。Corel は 2001 年の第 1 四半期に 同社の Linux 部門を売却し、Stormix は 2001 年 1 月 17 日に破産を宣告し、Progeny は 2001 年 10 月 1 日に同社製ディストリビューションの開発を停止しました。
次期リリースへ向けたフリーズは、2001 年 6 月 1
日に始まりました。しかし
ながら、プロジェクトが次期リリースを完成させるまでには、それから
1 年強 の時間を要したのです。その理由は起動フロッピーの問題
や、main
アーカイブへの暗号化ソフトウェアの
導入、プロジェクトの根底にあるアーキテクチャの変更
(incoming アーカイブと セキュリティアーキテクチャ)
などでした。しかしこの期間に、安定版リリース (Debian 2.2)
は 7 度も改訂され、Ben Collins さん (2001 年) と Bdale Garbee
さんという 2
人のプロジェクトリーダーが選出されました。さらに、パッケージ化
以外にも Debian
関連の多くの作業は成長を続けました。その中には国際化も含ま
れており、(1000 以上のページがある) Debian
のウェブサイトは 20 ヶ国以上の
言語に翻訳され、次期リリース版のインストールでは 23
ヶ国語に対応していました。 Debian Junior (子供向け) と Debian
Med (医学の学習研究用) という 2 つの 内部プロジェクトも
woody のリリース準備期間中に始まり、Debian をその種の
業務に適したものとするための異なる焦点をプロジェクトにもたらしました。
Debian 関連の作業も、開発者が Debconf
と呼んでいる年に 1
度の会議を企画する妨げにはなりませんでした。最初の会議は、
7 月 2 日から 5 日にかけてボルドー (フランス) で Libre
Software Meeting (LSM) と共催で行なわれ、約 40 名の Debian
開発者が集まりました。 2 回目のカンファレンスは 2002 年
7 月 5 日にトロント (カナダ) で開催され、 80
人以上の参加者を集めました。
Debian 3.0 (Woody) は 2002 年 7 月 19 日にリリースされ、 Intel i386、Motorola 68000 系列、 alpha、SUN Sparc、PowerPC、ARM、 HP PA-RISC、IA-64、MIPS、MIPS (DEC)、IBM s/390 といったアーキテクチャに 対応していました。HP PA-RISC、IA-64、MIPS、MIPS (DEC)、IBM s/390 などの 移植版が収録された初めてのリリースです。このリリース時点では、1000 人 以上の Debian 開発者によって保守される約 8500 個のバイナリパッケージが あり、CD-ROM に加えて初めて DVD メディアでも入手できるようになりました。
次期リリースを前に、年に 1 度の会議である Debconf が引き続き 行なわれました。第 4 回は 2003 年 7 月 18 日から 20 日にかけてオスロで 開催され、120 名以上の参加者が集まりました。またそれに先立ち、 7 月 12 日 から 17 日にかけて Debcamp も開催されました。 第 5 回のカンファレンスは 2004 年 5 月 26 日から 6 月 2 日にかけて ブラジルのポルト・アレグレで開催され、26 ヶ国から 160 名以上の参加者を 集めました。
Debian 3.1 (sarge) は、2005 年 6 月 6
日にリリースされ、対応 アーキテクチャは woody
と同じでしたが、非公式な AMD64 移植版
が同時にリリースされました。この AMD 64 移植版は、http://alioth.debian.org
から利用できるディストリビューション向け
プロジェクト運営インフラストラクチャを使用しています。1500
人以上の Debian 開発者によって保守される約 15,000
個のバイナリパッケージがあり ました。
sarge のリリースでは多くの大規模な変更がなされましたが、大半は 同ディストリビューションのフリーズとリリースに要した長きにわたる時間に よるものです。sarge では、従来バージョンにもあったソフトウェアの 73% 以上が更新されただけでなく、9000 個もの大量の新規パッケージが収録され、 サイズ的には従来リリースの倍近くになりました。新規パッケージには、 OpenOffice スイート、Firefox ウェブブラウザ、Thunderbird 電子メール クライアントなどが含まれます。
sarge には Linux カーネルの 2.4 および 2.6 系列、XFree86
4.3、 KDE 3.3
が収録されており、まったく一新されたインストーラを備えて
いました。この新インストーラは旧式な起動フロッピー式インストーラを置き
換えるものです。モジュール式の設計で、ハードウェアの自動認識を含むより
進化したインストール (RAID、XFS、LVM にも対応)
を提供し、全アーキテクチャ
において初心者ユーザでもインストールを容易に行なえます。
また、パッケージ管理用に選ばれるツールは
aptitude
に切り替わりました。
ソフトウェアがほぼ 40
ヶ国語に翻訳されたように、インストールシステムも
完全な国際化対応を誇っています。インストールマニュアルやリリースノート
といった周辺文書もリリースと同時に入手可能となり、それぞれ
10 から 15
ヶ国の言葉に翻訳されたものが用意されています。
sarge には、Debian-Edu/Skolelinux や Debian-Med、Debian-Accessibility といったサブプロジェクトによる成果も取り込まれています。これらのサブ プロジェクトにより、教育用パッケージや医療団体用パッケージ、それに障碍の ある人向けに特別に設計されたパッケージの数は増加の一途をたどっています。
第 6 回の Debconf は、2005 年 7 月 10 日から 17
日にかけて フィンランドのエスポーで開催され、300
人を超える参加者を集めました。
このカンファレンスの模様を映したビデオ
がオンラインで入手できます。
2000 年 7 月 11 日、Espy のニックネームで知られていた Joel
Klecker さんが 21 歳でこの世を去りました。#mklinux、Debian
のメーリングリストや IRC チャンネルで 'Espy'
と交流のあった人々で、このニックネームの影には デュシェンヌ型筋ジストロフィー
という病に苦しむ若者がいるのを知っていた者はいませんでした。ほとんどの
人々は Joel さんのことを「Debian の glibc と powerpc
野郎」としてのみ 知っており、Joel
さんが闘っていた困難に想いがおよぶ者はいませんでした。
肉体的には病んでいましたが、Joel
さんはその偉大なる精神を他の人と共有して いました。
Joel Klecker (別名 Espy) さんに心より哀悼の意を表します。
James Troup
さんは、アーカイブ保守ツールの再実装を行ない、パッケージ
プールに移行したと報告しました
。この日より、ファイルは
pools
ディレクトリ内の
ソースパッケージに対応した名前のディレクトリに保存されるようになりました。
ディストリビューションのディレクトリには、プールへの参照が含まれた
Packages
ファイルだけが収められています。これにより、テスト版や
不安定版といったディストリビューション間での重複が単純化されました。
このアーカイブは PostgreSQL
を使ったデータベース駆動型でもあり、
ロックアップも高速化されています。
2001 年 3 月 1 日、Christopher Matthew Rutter (別名 cmr) さんが、 交通事故により 19 歳で命を落としました。Christopher さんは Debian プロジェクトの若く有名なメンバーで、ARM 移植版を手伝っていました。
Chris Rutter さんに心より哀悼の意を表します。
2001 年 3 月 28 日、Fabrizio Polacco が長い闘病生活の末、この世を 去りました。Debian プロジェクトは、Fabrizio さんによる Debian と フリーソフトウェアでの優れた作業と多大な献身に、敬意を表します。 Fabrizio さんの貢献は忘れられることなく、他の開発者が Fabrizio さんの 業績を引き継ぐべく前進するでしょう。
Fabrizio Polacco さんに心より哀悼の意を表します。
2002 年 7 月 21 日、Martin Butterweck (別名 blendi) さんが、白血病と 闘った末、亡くなりました。Martin さんは Debian プロジェクトの若い メンバーで、プロジェクトに加わったばかりでした。
Martin Butterweck さんに心より哀悼の意を表します。
2002 年 11 月 20 日の 08:00 CET (中央ヨーロッパ時間) 頃、オランダに あるトゥエンテ大学のネットワークオペレーションセンターで火災が発生 しました。建物は全焼し、灰燼と化しました。消防署はサーバエリアを救う 望みをすっかり諦めてしまいました。とりわけ NOC では satie.debian.org が 運用されており、そこにはセキュリティおよび non-US アーカイブと、新規 メンテナ (nm) および品質保証 (qa) データベースが含まれていました。 Debian はこれらのサービスを klecker という名のホストで再構築しましたが、 最近になって klecker はアメリカからオランダに移されました。
5 月 9 日、Manuel Estrada Sainz (ranty) さんと Andrés García (ErConde) さんが、スペインのバレンシアで開催されたフリーソフトウェア カンファレンスからの帰途、痛ましい交通事故で命を落としました。
Manuel Estrada Sainz さんと Andrés García さんに心より哀悼の意を表します。
7 月 30 日、Jens Schmalzing (jensen) さんがドイツのミュンヘンにある 職場で発生した痛ましい事故により亡くなりました。 Jens さんは Debian に参加して各種パッケージのメンテナ、PowerPC 移植版の サポーター、カーネルチームのメンバーとして活躍し、PowerPC カーネル パッケージをバージョン 2.6 に上げる手助けをしました。また、Mac-on-Linux やそのカーネルモジュールのメンテナでもあり、インストーラや地元のミュンヘン での活動を援助したりもしました。
Jens Schmalzing さんに心より哀悼の意を表します。
Debian プロジェクトは、不安定版ディストリビューション (コードネーム sid。映画 Toy Story より隣家に住む凶悪で 「情緒不安定」な少年から名付けられました。こんな子は、絶対に世の中に 出すべきではありません) で作業を続けています。Sid は永久に不安定版の コードネームであり、つねに「開発中 (Still In Development)」です。 ほとんどの新規および更新されたパッケージは、このディストリビュー ションにアップロードされます。
テスト版リリースは次期安定版リリースとなることを目指して おり、現在のコードネームは etch です。
etch のために Debian が行なっている作業としては、FSF
のフリー ドキュメンテーションライセンス (FDL)
に関わる問題
の解決、amd64
の公式アーキテクチャ化、依存関係を元にした init
システムの導入、SElinux
対応の導入などがあります。それ以外にも etch
ために開発者が行なうであろう作業が数多くありますが、
それらはリリースクリティカルであるとはみなされていません。詳細は
Etch TODO
リスト
を 参照してください。
ethc のその他の目標で、すでに実装済なものは以下の通りです: apt リポジトリへの gpg 認証の導入 (2005 年 6 月済)、Xfree86 を置き換える ために Debian で Xorg を統合 (2005 年 7 月完了)、パッケージ情報に tag 情報を統合 (2005 年 7 月済)。
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Debian 小史
2.5 (last revised August 10th, 2005)debian-doc@lists.debian.org